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ラムサ風になる [真・聖なる預言]

 私は風になることを望んだ。そのことに何年も何年も思いをめぐらせた。風が私の理想となったのである。風が私のなりたいと願うものだった。私の思考すべてを傾けても、なりたいと思う対象となった。風に思いをめぐらし、そのつかみどころのなさ、軽さといった性質や、認識できるその輪郭に自分を合わせようとした。そして、風に思いをめぐらす過程で、何か正しいものを求め続けた私が、風そのものになったのだ。

 その頃、私は夕刻になるといつもひとりで平原にすわり、月のやわらかな青白い光にじっと見入りながら風に思いを馳せることにしていた。そしてそんなあるとき、驚いたことに突如自分が天界に浮かんでいることに気がついたのだ。下のほうを見ようと首を回したときなど、自分がいったい何者なのかわからなくなってしまったくらいだ。

 すぐに私は、平原のほんの小さな点と化した自分の身体から遠く離れていることを悟った。自分の化身を見下ろしたとき、私は剣を突き立てられて以来、はじめて恐怖を感じた。私を自分の身体に戻したのは、ほかならぬこの恐怖だった。

 私は自分がどこかほかの場所、自分の化身である身体という牢獄から離れたところにいたことを悟り、汗とも冷や汗ともつかぬものに濡れて、目を開いた。私は天国にいるような気分でもあった。自分が風になれたことは、まちがいなかったからだ。私は大地にわが身を投げ、すべての源であり、力であり、ものの始まりの起因であり、そして「風」である神を讃えた。風の優美さ、美しさ、そして豊穣なるその生となることができた、あの最高の瞬間を、私はけっして忘れなかった。そして、そうさせてもらえたのは、私が自分の理想となることを固く決意し、自分がなりたかったものを、いつも思考の中ではっきりと思い描いていたからだと考えた。

(真・聖なる預言より抜粋)

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身体を離れる術(すべ)をマスターして [真・聖なる預言]

 自分の身体を離れる術(すべ)をマスターしてからも、どうすればどこかに行けるかがわかるまでに、ずいぶん時間がかかった。

 それからは長年にわたり、私は想念であちこちの王国に旅し、さまざまな存在に出会った。まさにこれから誕生せんとしている文明を訪れ、まだ見ることのない生活を目にした。ほんの短い一瞬の間に移動することも覚えた。思考のあるところ、そこに己も存在するということがわかったからだ。

 月日がたち、自分の理想になりきるという想いが、だんだんと私の身体の細胞にある生命力そのものとなっていくにつれて、私の魂は、一つひとつの細胞構造のプログラミングを変え、その中の波動を高め始めた。私の望みは、かくも強いものだったのだ。生きることに対して穏やかに感じられるようになるにつれ、その感情は私の身体組織のすみずみまでしみわたっていった。そして私はどんどん軽く、軽くなっていった。私の身体の波動は、以前より速くなっていた。物質の波動の速度から、光の波動へと進んでいったのである。私のまわりに輝く光が発生していたのもこのせいだった。

 やがて、月の光を浴びる私の身体は、だんだんとその輪郭がぼやけてきた。そしてある夜、私は月の光そのものになっていた。もはや想念で旅をしていただけではなかった。身体の波動を光にまで高め、自分の化身とともに移動したのだ!

(真・聖なる預言より抜粋)
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ラムサ昇華する [真・聖なる預言]

 風となったとき、人間は自分自身について無知なままだといかに小さく無力であるか、そして知識の中に身を置くとどれほど偉大な存在となるかを、私は悟った。そして、ただ望むことを通じて何かに長い時間思いを馳せれば、人はそれそのものになると知った。自分はみすぼらしく、魂もない存在で無力なのだと自分に言い続ければ、それを信じるようになり、実際にそうなってしまう。自分を風の主と呼ぶならば、私がそうであったように、実際に風の主となる。そしてもし人が自分を神と呼ぶならば、その人は実際に神となるのである。

 こうしたことを学んでからは、敬愛するわが同胞たちに、「未知の神」、そしてすべての生命の根源であるものについて教え始めた。そして年も老いてきたある日、この生でやるつもりだったことはすべて成し遂げた、というときが訪れた。私はインダス河をわたり、やはりインダスと呼ばれていた山の麓で、百二十日間にわたり、わが民の全員とともに語り合った。そこで私は皆に強く訴えた。いま語るものこそが真実そのもであると知ること、そして神からの啓示は、私や誰かほかの人間を通してではなく、私たち一人ひとりを創造した神を通して訪れるものであること。これを信じてもらうため、私は彼らの頭上を越えて見事に浮き上がってみせた。女たちは悲鳴を上げ、呆然とした。兵士たちは不可思議なものを目の当たりにして、思わず剣を落とした。私は皆に別れを告げ、私と同じことを学び、私と同じようになるように訴えた--それぞれが自分なりのやり方で・・・。

(真・聖なる預言より抜粋)

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人間の変質した思考 [真・聖なる預言]

 人間よりも力があり、知性も優れていると思え、人間のまわりにありながら人間がいても平和に共存しているさまざまな要素、この世界をつくり上げているそういった要素について学ぶ過程を通じて、私は「未知の神」を見つけることができた。

 つねに不変であり、けっして判断を下さず、少しでも考えをめぐらせば誰でもすぐ理解できるものから私はすべてを学んだ。そのおかげで、人間の変質してしまった考えに支配されることもなかった。それは、偽善、頑なな理論、迷信じみた信念、そしていつもご機嫌をとらねばならない複数の顔を持つ神などのことだ。ほとんどの人間がまだこれから理解していかなければならないことを、私はこの地上界におけるただ一回の生で簡単に学ぶことができたのは、このためだった。言い換えれば、皆はほかの人間の考えの中に神を見つけようとしているのだ。政府による統治や教会による支配に、あるいは歴史の中に神を見いだそうとするが、その歴史がいったい誰の手によって、何の目的で書かれたのかということをまだ問いかけてはいないのである。人間は、自分の信念や考えや思考のプロセスといった、自分の「生」そのもの基盤を、幾度か知れぬほどの数の生を通じて、すでに何の役にも立たないことが明々白々となっているものに置いてきた。それが役立たぬことがわかっているのに、人間たちは自分の変質した思考につまずき、自分の傲慢さという牢獄につながれたまま、死に向かうことしかできない偽善を営々と続けているのである。

(真・聖なる預言より抜粋)

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未知の神とひとつになる [真・聖なる預言]

 知りたいことをすべて知り得たのは、高次に昇華してからのことである。肉体の固体性を脱して、想念の流動性となることができたからだ。そうした中で、私を抑えるものは何もなかった。人間はまさにその本質の部分で神なのだ、と悟ったのである。高次に昇華する以前は、私は魂などというものがあることも知らなかったし、化身としての自分の身体をどう昇華させたらいいのかについての仕組みも理解していなかった。わかっていたのは、自分がしてきたこと、生きるということを穏やかに受け容れられる状態にあったことだ。もはや私は、戦いを求める無知な野蛮人ではなかった。自分を酷使することも働きすぎることもなくなっていた。毎日毎日、そして毎夜毎夜、天空で見た、あの生きることのすばらしさを精一杯心の中に抱いていた。それが私のすべてだった。

 自分を愛することを学んだのは、偉大なもの、壮麗なものと自分を比べてみたときだ。自分が学んだことをしっかりと把握し、その対象を自己に向けて焦点を合わせたとき、私の人生は満たされていった。平穏が訪れたのもこのときだ。「未知の神」とひとつになったのもこのときのことである。

 私がなったのは風ではなく、風が象徴していた理想だったのだ。いま私は、風を司る存在となっている。すべてにあまねく存在し、すべての生命とひとつである自由な本質、目に見えない本質そのものになったからだ。この本質となったときに、私は「未知の神」のことがわかった。何が「未知の神」で、何がそうでないかがわかったのである。私が知りたかったのはこれだった。自分の内に答えを見つけ、その答えが私をさらに壮大な叡智へと導いてくれたのである。

 私は征服者ラムサだった者……いまは神なるラムである。あらゆるものの中で、最も単純でありながら、最も深遠なものによって蛮人より神となった。これから、あなたに教えるのは、すべて私自身が学んだことである。

(真・聖なる預言より抜粋)

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